蕎麦好きの独り言(2014.09.06up)

その九、「黙契秘旨」


蕎麦の花畑



人間、歳が行くと日常の流れが速く、うっかりしていると季節が一回りしていたなんてこともある。
そこまでひどくなくても、少しの間ぼお〜っとしていると、季節に置いて行かれるなんてことは、珍しくもないことだ。そんなわけでろくに蕎麦打ちをせずに夏が終わってしまったのだ。

自宅周辺の圃場では蕎麦の花が満開だ。お盆頃(8月中旬)に種を蒔いたのがもう花を咲かせている。蕎麦というのは成長が素晴らしく早い作物なのだ。じきに結実するから刈り取り乾燥して収穫、いやいや最近はコンバインで刈り取り後に乾燥となるのか、当方では栽培したことがないので詳細は分からないが、蕎麦好きにとっては頬が緩む季節である。

我が地域でもここ数年で蕎麦を栽培する農家が増えた。これはどういうことかと言えば、特定の地域の農家全てが、転作作物として米から蕎麦に切り替えたというのが理由である。以前は大豆や飼料用米を栽培していたが、特定の生産組合や集落営農単位で転作作物を蕎麦に限定した結果、広大な蕎麦畑の花が満開という景色の副産物を生んだのだ。



蕎麦の花は純白で清楚だ


もう少し詳しく書くと、いつぞや減反政策廃止と大々的に報道されていたが、全ての農家が今まで減反して米を植えないでいた田んぼに、無条件で好きなだけ米を植えて良いかと言えば、答えはNOである。
いや正確にはYESの部分もあろうが、お上のやることには必ず裏があるもので、某政党が大々的にぶち上げた戸別所得補償制度による補助金制度がまだ残っており、生産調整に協力した農家には、今だ補助金が支払われているのだ。逆に言えば補助金が出なければ庄内平野の景色もまた変わるのだろうが…

まあ、ここで政策批判をするつもりは毛頭ないのでこれ以上のことは書かないが、今の時代その気になって調べれば簡単に今の農業事情が分かるので、興味のある方は調べてみた方が良いと思う。



もうすぐ稲刈りが始まる田んぼ


話は戻るが、若かりし頃会社の大先輩に面白い人がいて、良くいこんなことを言っていた。

「あっこさ行くど、あんなあっさげ、あっこさもていて言うど、あーしてくいっさげ、でげだらそっちゃもていて、いあんべいてくれ」

昔の庄内弁なので翻訳すると

「あそこに行くと、あれがあるから、あそこに持って行ってお願いすると、あれをしてくれるので、出来上がったらそちらへ持って行って、よろしく言って下さい」

となるわけですが、若い頃は彼が何を言わんとしているかまるっきり理解できなかった。つまり言ってる本人しか理解できてないのだったが、年月の経過と共に齢を重ねると、不思議なことに自分もそんな風な言い方をしていることにふと気付くことがある。
つまり自分の中では自己完結している表現が言葉に出来ないのだ。品詞や名詞が瞬時に発声できないことは、筆者ばかりでないことも分かってきた。

しかし悪いことばかりでなく良いこともあって、最近その先輩と会って気付いたのだが、前述のような意味不明のことを言われても、不思議と言わんとしていることが理解できるようになってきたのである。
これは喜んで良いのか微妙なところではあるが、少なくとも我々二人の意思疎通には良いことと考えることにした。

大先輩はもうすでに退職されて日々悠々自適に好きなことをしながら暮らしておられるが、蕎麦打ちの名人でもあり毎年大晦日になると年越し蕎麦をいただいている。
我が家の年越しは少ない家族ゆえそんなに多くの食材は必要ない。けれども時には人数が増えることもある。不思議なことに先輩は普段我が家に入り浸っている訳でもないが、毎年不思議なことに人数分ぴったしの年越し蕎麦を届けてくれるのだ。

別にこちらから何人分と頼んでいる訳ではない。何となく分かるんでしょうね。
この辺の勘所が実に鋭敏な人であるのだが、蕎麦以外でも季節の山の味覚を旬の時に時折お裾分けしてくれる。
了見の狭い筆者などは、山に遊びに行った際に偶然姫竹等の好物を見つけたなら、見境無く熊のようにかき集めながら、浅はかにも晩酌の算段などをする。決して人様に差し上げようなどとは考えない利己的で浅はかな人種だ。
山菜と対峙している先輩の脳裏には、もっと別の何かが映っているのだと思う。

また別のある先輩と世間話をしていると、退職後の農作業は思ったほど捗らないものだとぼやかれた。
彼が言うには現役の頃は時間に追われ、仕事の合間の朝晩や休日などに集中して作業をこなしていたが、退職後は日中いつでも出来ると考えていたそうな。
けれどもいざ退職してみると、気持ちに余裕が出来た反面いつでも出来るという誘惑から自堕落になり、返って仕事が捗らなくなったそうだ。
傍から見ていると働き者のお手本のような人だが、そんな風に考えているなんて目から鱗だった。

筆者の周りにいる農家は結構自己中心的な人が多い。中には何でそんなことが出来るのかというスーパーマンのような人もいる。ギタリストのように自己完結的性格が備わっているのだろう。こういう人たちは他人に仕事を手伝ってもらうのを嫌う傾向にあるように見える。けれども必然的に共同作業を行う機会もあり、そういうときには別に打合せなどしなくても自分のやる仕事が見えるのか見事な連携作業を行う。

利己を捨て他人の心根を理解できる人になどなれそうもないが、自身の器の小ささを実感する今日この頃、オラにやれるのは大風呂敷を広げるくらいなのだ。


やれやれ…